備前と丹波の陶印の意味
        備前・丹波  陶印の比較      桂又三郎  レポートより

備前焼(天保以前)丹波焼(立杭窯)以前は共に大窯によって焼かれた関係上、陶印の上に共通点があるものとも考えていたが、実際丹波焼きを見るに及んで陶印の上では可也の隔たりがあることがわかった。備前の陶印はその大部分が共同窯に於いてその所属を明らかにするための窯印であって、その窯印には家号を用いており、丹波では共同窯の場合には各窯の部屋のよって区別しているため窯印の必要がなく、主として作者名が彫ってある。

西暦
   備前と丹波          窯の構造
1611〜

丹波焼



登り窯の導入・・・1611頃
穴窯時代
 中世の丹波焼は、創業以来桃山時代末期に至って山麓に登り窯が築かれるようになるまで、約400年の長きにわたって穴窯時代が続いた。
 近世における丹波焼は、慶長16年(1611)ごろ、朝鮮式半地上の登り窯が導入されたことによって、これまでの長い穴窯時代に別れを告げ、登り窯時代という新しい時代の幕開けでその歴史がはじまった。
 この登り窯時代は、当初釜屋の山麓に登り窯が築かれていたので、「釜屋時代」とも「山麓時代」ともよばれる時代からはじまり、さらに宝暦2年(1752)には下立杭、さらには上立杭にも登り窯が築かれる「里窯時代」へと引き継がれていきました。
 この蛇窯(へびがま)ともよばれる朝鮮式半地上の連房登り窯が導入された


そのため陶器の所属は明白となり作者名をいれた。
1624〜1867

備前焼


大窯・・・・穴窯 

江戸時代
(大窯初期)   60年
(大窯中期) 120年
(大窯末期)   30年
(天保窯)      40年
備前焼の最盛期に当たる 桃山時代の様相を物語るのが、南大窯跡である。 当時、北大窯跡、西大窯跡と並んで共同窯として使用されていたもので、 東大窯・中央窯跡・西窯の三基の窯とそれらに伴う物原(不良品、破損品を捨てた場所) から成っている。
最大の東窯跡は全長54m、幅約5mに達し、国内でも最大規模の窯跡である。
三基とも床面を若干掘り下げた上に天井を架けて、トンネル状にした穴窯と呼ばれる 構造で天井を支えるため土柱が設けられていた。   

穴窯は大部屋のため、生産者の所属を明らかにする意味での陶印をいれた。
 


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