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礼儀や作法を重んじる日本文化で、焼き物の歴史を知るには「茶道」について知る必要が有ります。

このページが「やきもの」に興味を持つ人の参考になれば幸いです。

 ■   平安時代、飲茶の始まり
中国浙江省の天目山付近の寺院は、平安時代に入唐した僧侶たちの修行の場でもありました。
飲茶は天台宗の開祖である最澄や真言宗、詩文、書などを学び、美術、文献等文化関係物を集め、 帰国した空海等により上流社会に唐風の一つとして流行しました。 同時に天目茶碗も天目山の寺院で常椀としていたものを禅僧が持ち帰ったところから名が付けらています。
嵯峨天皇は芸術的、創造的な才能を持ち合わせていた空海をとくに優遇したため、 唐風の文化は貴族の間で人気を得ました。
また嵯峨天皇は、お茶の植樹を奨励しましたが、後の遣唐使の廃止もあって唐風のお茶は根付くこともなく、 やがては廃れていきます。
 ■   室町時代中期、
足利義政の時代、文明15年(1483)に完成した銀閣を中心とする 東山山荘にちなんで東山文化と呼ばれます。 東山文化の特徴は、禅宗の影響を受ける一方で、茶の湯、立花、水墨画、連歌、能などの新しい文化が次々起こり、 現代文化の源流をなした点にあります。 また、東山文化を考えるうえで重要なのは、書院建築の発達です。 唐物を飾り、茶を点て、花をいけ、芸能を演じるという行為は、すべて書院空間のなかで行なわれました。
茶の湯の開祖村田珠光(じゅこう)は当時流行していた唐物中心の豪華な書院の茶の湯に対し、 侘びさびを重んじる草庵の茶を始め、茶道具も従来の唐物から侘びた日本の焼き物を使い茶の湯の流れを変えていきます。
茶の湯の流れを最初は種壺などを水指に転用していましたが、次第に茶陶としても注文されるようになり、 備前焼も国焼茶陶として茶道具の中に取り入れられていきました。
 ■   珠光のさびの心を受け継いだのは、堺の茶人武野紹鴎(じょうおう)であり、 この紹鴎が所持したと伝えられる備前水指 「青海」は転用ではなく水指として焼かれたものだと思われます。
室町時代末期になりますと茶の湯がますます盛んとなり、水指、花入、茶入など備前焼の茶陶が多く焼かれるようになります。
 ■   さらに桃山時代になりますと、武野紹鴎に師事した 千利休(1522年−1591年)はわびの美意識を貫いた天下一の匠で形式や伝統に こだわらず、独自の美意識によって変革を行い、安土桃山時代の茶人として織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めました。  信長の死後は秀吉に仕え重用されたが、茶頭としての立場を越え次第に側近としての役割が次第に強くなっていきます。
利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統を受け継ぎ、茶会と点前、独創的な茶室と道具の創造、現代の茶道の 基礎をつくりあげました。 また、従来の派手に遊ぶ茶会は、料理を簡素化し茶会の趣向にわびの美意識を貫いたのです。 又小さな茶室をつくり、茶陶についても長次郎に楽焼茶碗をつくらせたり、高麗茶碗や瀬戸茶碗なども 積極的に取り上げました。
 ■   利休の亡き後は、侘び茶の礎を創り上げた桃山前期の茶を排し、古田織部 (1544年-1615年)は、桃山美術に見られる色彩と感覚を自在に表現して、華やかで美しい桃山文化の武家に ふさわしい大名茶を完成しました。
この点では利休の生き方を継承し、人まねでない斬新な試みを行なった織部こそが利休の真の後継者として ふさわしいと思われます。
織部は利休好みの楽焼き茶碗にかわって織部焼の指導を行って、織部焼の沓形茶碗を創作し、故意に歪めたり箆目を 使い派手な色柄をも好んで、利休の侘び茶にこだわらない茶陶を 目指しました。 茶陶から茶室に至るまで、色彩や造形で強烈な個性を主張し、幅広く織部好み と呼ばれました。
その種類も水指、花入を中心とし、茶入、茶碗、蓋置、香合など多種にわたり、手鉢、徳利などの懐石道具等々も 焼かれました。
この時代の茶陶や器類は大きな影響を与え、現在の備前焼の指針となっています。
 ■   幕末になると作行に力がなくなり、同時に販売量も下降し始めます。 この時代、小堀遠州(1579年-1647年) 好みの小綺麗で薄作りな物が主流になって行きます。 この遠州の茶の湯は「きれいさび」と云われています。
備前焼は苦境の時代に突入し始めます。



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