泉北ニュータウン

陶器山の薪合戦

むかしばなし
             赤松の伐採権めぐり
        

和泉、河内が紛争

陶器山の薪合戦 むかし、むかし、ずっと大昔の話でございます。
河内、和泉の国境にある陶器山には赤松が 群生していました。
この赤松の伐採権をめぐって両国の間に 大紛争が起こったのであります。
陶器山山頂を自分達の所有と狭山村の農民が 突然占領したからであります。
和泉の陶器谷(現の泉北ニュータウン)の人々にとって 陶器山を他国の人々に占領されることは、 陶業の死を意味します。 陶器谷の窯はすべて陶器山の赤松を燃料としていたからであります。
窯数が少なかった頃はふもとの松で足りていたのでありますが、販路が全国に広がりますと 燃料が不足して中腹から山頂へと松を求めて伐採するようになりました。 山頂の国境になりますと所有権があいまいになってまいります。 「今頃になって、狭山村の(現南河内郡狭山町)の 領分とは何事か」「このうえは実力行使しかない」 とばかり、高倉寺(堺市高倉2丁)に法螺貝(ほらがい)を 吹きながら数百人の陶工が集まってきました。
さしも広い境内も、ぎっしりと白鉢巻きをした陶工でうずまってしまいました。
境内には赤々とかがり火が燃えました。 松の薪を高さ6メートルも積み上げて点火しましたので 、その燃え上がる有様は遠くの村々からも眺められました。
一方、狭山村の農民も、これに負けてはいられません 。
「いままで陶器谷のやつらは高杯(たかつき)や壷など作って儲けしくさって」腰に鎌をさし小脇に竹槍を抱えた農民が続々と陶器山の山頂に集まってきました。
作戦会議が始まり、やがて次の案が決まりました。 それはこうです。
牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけ高蔵寺に集まって いる陶工たちをけちらすのであります。 準備も終わり出発の時が参りました。
この時、奈良の都より和泉、河内の薪合戦を いたく心いやせられていた帝(みかど)の裁定書を持った大臣がおみえになりました。

帝の
裁定書
一、 陶器山の伐採権は和泉国に与える。
一、 陶器山の雑木の伐採権は河内の国に与える。
一、 陶器山の松によって得た利益の半分は税金とし 、その残りは河泉の国に与える。
これによって陶器山の陶工達は利益の半分を自分のものにすることができ、陶器山の松も安心して伐採することが 出来るようになりました。
さしもの大紛争もこれによって終わりをつげた次第です。 二千基もの須恵器の窯跡が散らばっていた陶器谷は、 今、5万4500戸の高層ビルが林立するニュータウンに変わっています。
当時の窯跡などの模型は泉北考古資料館(泉北堺市若松台1丁) に陳列されています。

                     郷土史家 中山凡流 泉北むかしばなしより
陶器山
陶器山頂上にある水道貯水所
カーナビに堺市南区晴美台1丁36をIN PUTして
着いたら陶器山です。
泉北ニュータウンの晴美台は陶器山を切り開いて出来た町なのです。従い徐々に道路は上りになっているので頂上と言う実感はありません。 住宅のある1丁35地番からは20〜30mぐらい高い感じでした。
陶器山山頂路、
もう、そこは山の中の感じです。
山頂に咲いていた花(ひめさゆり) 山頂近辺の高校の校庭から見た景色
陶器山から眺めた泉北ニュータウン
陶器山近辺の建物からみた昔の陶器谷
に相当の泉北ニュータウン隣接地域
陶器谷の想像図(堺市資料より)

高倉寺の境内
高倉寺境内説明板

高倉寺は真言宗の寺院で修恵寺あるいは大修恵山と呼ばれていましたが「修恵」は須恵(陶)に由来するものと考えられます。行基開創49院のうち、家原寺に次いで慶雲2年(705)に造営された大修恵と考えられる古寺です。
当事に御幸(みゆき)された高倉天皇(1168〜 1179)から多くの朱印地と「高倉山天王院」の山号と寺号を賜りましたが、応仁の乱・永正7年(1510)の大地震・織田信長の焼き討ちにあい、ことごとく失われました。真海僧正、ついで憎快盛が復興に努め、天正末年には金堂を再建しました。
慶長末年(1614)岸和田城主小出播磨守秀の三男小出大隔守三尹が分家して陶器村に陣屋を置き、当事に帰依して諸堂の修理・改築などを尽くしました。明治になって本坊、宝積院以降の塔頭・寺院数ケ寺は慶寺となり、現境内地を除く数万坪の土地は上地されました。               堺市

 

陶器八景(調査中)
当時の壷
当時の
高杯(たかつき

泉北
 考古資料館


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