泉北ニュータウン

造成前は陶器の村

                     

須恵器造りの秘伝里人たちに

                                
むかし、ヒエやアワを作りながら素焼きの壷などを造って細々と暮らしていた陶器の村里に、丘の斜面を利用したりっぱなのぼり窯を持つ工場ができました。   この工場から魅力ある須恵器がたくさん生産されましたので、いままで副業としてコツコツと茶碗や水甕を造っていた里人達は販売不振となり、たちまち半失業という憂き目をみることになりました。
真っ赤な夕日が沈む頃、陶荒田神社(堺市上芝)に、善後策を協議するため暗い表情の陶工や家族がつめかけました。
「明日から私達一家はどうなるのです」と泣きじゃくる女房もいました。
「須恵器工場をたたきつぶそう」と物騒なことをいい出す威勢のよい若者もいました。
「粘土を売らないことにしたらどうでっか」と知恵者の壮年の男がいいました。
搦め手から、新鋭工場の操業が出来ないようにしようという作戦です。
高倉、片蔵、豊田、陶器、栂(現在の泉北ニュータウン)の村々の土は、須恵器造りにはもってこいの粘り気を持っています。
「そうだ、そうだ。ついでに薪も売らないことにしよう」
いかに高度な技術を持つ工場といえども、原料の土と薪をおさえられれば、息の根を止められることになります。
やきものは土と火の芸術品であるからです。
土に水を加え、練って成型し、木をくべ、火をたいて焼き上げる作業なのです。
この界隈(かいわい)には無じんぞうに粘土と燃料になる松の木があります。
会議は土や薪を売らないことに決まりかけました。
これまで、じっと聞いていた白髪の村長(むらおさ)が立ち上がり叫びました。
「それはいかん、やめなさい」「なぜですか?」「みなの者よく聞きなさい。
いままでの話は生産者のエゴばっかりじゃ。消費者のお客の立場は全く無視されている。安くて良い物が売れるのはあたりまえである。要するに私達の勉強が不足していた」「では、どうすればよいのですか」「窯の秘密を盗めというのですか」「いやそうではない。高貴氏に秘伝をならうのだ」
村長は陶工をつれて、土師(はぜ)部をひきいる工場長の高貴氏に合いに行きました。
「どうか、須恵器造りの不思議な技を教えてください。」
「どうぞ、どうぞ、どんなことでもお教えしましょう」
村長は目に涙をため高貴氏の手を握りしめました。
「ありがとう」この時、陶器山に向かって鮮やかな七色の虹がかかいました。
この後、陶邑は飛躍的に発展しまして、全国の祭礼、儀礼用の須恵器はもちろん実用品のお皿の類まで販売しました。
泉北ニュータウンが造成されたころ、数多くの須恵器(紀元5世紀の初めごろ弥生式土器より新しく生産された硬質の須恵器が発見されました。現在「考古資料館」堺市若松台にこれらの須恵器は秘蔵され、また展示されているそうです)
                            郷土史家 中山凡流 泉北むかしばなしより
これらの文化遺産は、わが国の古代歴史上、幾多の先人達が果たした重要な役割を 示しています。 この土地には今も人名に「土師」と云う名が多いです。
この地は特に、須恵器で有名な土地柄(陶邑古墳群)で、五世紀から十一世紀まで 続いた窯場でこの頃から、ろくろ、穴窯、焼成技術を知ることになるのです。

小谷城址
堺市豊田の小谷城跡から眺めた泉北ニュータウン。
造成のとき多くの登り窯が見つかった。
手前真下の建物は小谷城跡を現在所有の阪和第一泉北病院
    小谷城跡上り口
                           


メニュー

TOPに戻る