陶器

陶器(とうき)

主原料は粘土。焼成温度が土器より高く、非透光性で若干の吸水性がある焼き物を陶器といいます。

日本書紀に茅淳県陶邑(ちぬのあがたのすえのむら)は須恵器を作っている所であると書かれています。
須恵器は陶器とも書きます。現在では「とうき」と呼ばれ昔陶器を作っていた所ということからこの地名になりました。現在の大阪府堺市中区にある地名で、かつては東陶器村・西陶器村が存在していましたが、現在の住居表示では「陶器北」のみが残されています。 今は地名ではありませんが、かっての名残として堺市立西陶器小学校, 堺市立東陶器小学校があります。またこの土地は江戸時代に陶器藩が設置されていたそうです。

明治3年(1870)、陶器領は堺県の管轄下に入り、小出家の支配は終わりました。
この写真は 陶荒田神社の案内板に旨くまとめてありますので、原文のまま紹介します。
               陶荒田神社
主祭神は高魂命(たかむすびのみこと)・剱根命(つるぎねのみこと)・八重事代主命(やえことしろぬしみこと)・菅原道真で、
末社として山田神社・弁財天社・戎社・太田神社・老松社を合わせて祭っている。
当社の由緒によると崇神天皇の7年に素盞鳴命(すさのおのみこと)十世の孫田々根子が天皇の命を受け大和国大三輪大神をお祭りする主となった時、祖先の霊を祭るため、この陶邑(すえむら)の太田森に建てたのが始まりで、主神の高魂命五世の孫剱根命の子孫たる荒田値(あらたあたい)が当社の祭礼を行っていたとされ、地名の陶との荒田とをとって陶荒田と名づけられたと伝えられている。
昔、この辺りは芳渟県(らぬのあがた)大村郷と呼ばれ、丘陸のつななる山間地で、陶土と薪に恵まれ須恵器の生産が盛んに行われていた。近くの泉北ニュータウンを中心として和泉市・大阪狭山市にまたがる一帯に築かれた窯は約千基とも言われ、当社の近くは陶器千塚と呼ばれるほど多くの古墳や窯跡が残っていたが宅地開発により今ではその一部を残すのみとなった。なお、当社は延喜式にも記載されている古社であり、この地方の産土神として、また陶器製造に携わる者の守護神として崇拝されている。                 
堺市
   
                            陶器北のバス停
泉北ニュータウンから陶器山にかけては「日本書紀」にでも「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえのむら)」と呼ばれているように、5世紀頃より朝鮮からの渡来人に伝えられた須恵器(すえき)の発祥の地でした。
この辺りからは、600基に以上の窯跡が見つかり、おびただしい数の土器類が出土しています。
近代都市の泉北ニュータウンとは違って古い歴史を持つ「陶器北」辺りは道路幅がなく自動車のすれ違いには苦労しました。
特に陶器北の周辺は大きな長屋門の旧家も多く、この地域に新興住宅が少し混じって建ってはいますが道路事情は旧街道のままでした。
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(最終更新日 2007.05.03)